ウィンチェスターファームは 2002 年 6 月吉田直哉 ・ マリによりケンタッキー州パリス地区で産声を上げました。当州で最も肥沃な土壌を持つこの地区で隣接するのは当国サラブレッド生産の代名詞クレイボーンファーム。そこで 150 エーカー (60 ヘクタール ) の規模で生産活動を始めました。尚、社名は当社やクレイボーン、サンデーサイレンス生誕地として知られるストーンファームが所在するウィンチェスター通りに由来しています。私達の目標はケンタッキー州で繋養されている優れた種牡馬と肥沃でブルーグラスが繁茂する大地を背景に国内外の顧客と協力しトップクラスの競走馬を育て上げるための牧場を構築し生産馬で市場や競馬場で好成績を上げることです。そのために基幹の預託事業の他に配合コンサルタントやセリ馴致、またセリや庭先での売買、種牡馬・現役馬のマネージメント業務、ビジネスパートナーシップ設立と運営も手掛け各顧客の競馬事業について全体的にサポートしています。
母国フランスと日本、国外での実務研修や競馬産業に本格的に参入した後築いた実績から得た人脈・顧客・経験との強い結びつきが支えとなり吉田直哉とマリは当社創設直後から成績を残し当社は規模が急速に拡大し僅か 2 年目の 2004 年 12 月にレキシントン市のイートンファーム本場 270 エーカー (110 ヘクタール ) の買収に至りました。同社は当州の先駆的な生産者の一人、リー・イートンにより創設されたインディアンヒルファーム が前身でレキシントン地区の開墾当初から存在する長い歴史を持つ牧場でした。
インディアンヒルファームは 19 世紀初頭、この地に移り住んだチャールズ・ムーアとその妻マリアン、 3 人の子アリス、メアリー、ジェニーそしてジェニーの夫ジェームス・キャントリルとメアリーの夫でレキシントンに駐屯する第 5 騎兵隊に所属していたメアリーの夫トーマス・ブレント少将により開かれました。彼らはこの地で人生を全うし今でも当社のオフィスの隣に彼らの墓標が存在します。南北戦争下ブレント大佐は 1863 年 7 月 4 日に開戦したグリーンリバー橋の戦いで南部軍ジョン・モーガン将軍の指揮下に所属し北部軍ムーア大佐率いるミシガン第 25 連帯を相手に致命傷を負うという記録が残っており彼らが活躍していた時代を感じさせます。
戦火の最中にあってもムーア家のウェリントンムーアファームは健在でその後子供達によって分割運営されていましたが 1964 年この付近の牧場の買収をしていたリー・イートンに売却。インディアンヒルファームと改名されノースエルクホーン川が流れ場内の一角にアデナ族インディアン墓地を残す 270 エーカーの牧場としてサラブレッドの本格的な生産が始まりました。
Eatonの所有の下で、農場は多くの著名なサラブレッド種の馬を生産しました。 Comely Nell、EatonがCalumet Farmから購入し、彼女が片目で盲目であったためにレースをしたことがない基礎馬は、農場に埋葬されています。 Comely NellはLee Eatonによってアイルランドの城で飼育され、1973年にFasig-Tiptonサマーセールで販売される前に農場で育てられたコルトを育てました。 コルト、ボールドフォーブスは、1976ケンタッキーダービーとベルモントステークスを獲得するために続けます。
イートン時代に入り牧場は多くの優駿を輩出し始めます。後に同場の基礎牝馬となったコムリーネル (Comely Nell) はカルメットファームから購入したものの失明し競走することが出来ませんでしたが、 1973 産のアイリッシュキャッスル (Irish Castle) 牡駒はファシグ・ティプトンの夏の 1 歳馬市場で売却され後にボールドフォーブス[直哉1] (Bold Forbes) と名付けケンタッキーダービーとベルモントステークスに優勝しました。
イートンは再びコムリーネルをアイリッシュキャッスルと交配させ Gr.1 勝ち馬ダンビース ( Dunbeath) とサラトガシックス (Saratoga Six) の母となったプリンセスフェイム (Princess Fame) を生産します。さらにイートンは血の更新を図りコートリーディ[直哉1] (Courtly Dee) を購入しました。同馬はステークス勝ち馬となったネイティヴクーリエ (Native Courier) 、アリオップ (Ali Oop) 、プリンセスオーラ (Princess Oola) 、トワイニング (Twining) の母となり 1983 年の年度代表繁殖牝馬に選出されました。この牝系からは Gr.1 勝ち馬アザーム (Azzaam) 、グリーンデザート (Green Desert) そしてマーケットブースター (Market Booster) が誕生し、種牡馬ウッドマン (Woodman) もこの地で生まれています。
1999 年イートンは彼の部下ライリー・マクドナルド (Reiley McDonald) とそのパートナーに同場を売却し引退。インディアンヒルファームはイートンファーム (Easton Farm) として繁殖牝馬と当歳を繋養、そして 2004 年同社の歴史は吉田直哉・マリに引き継がれることになりました。マクドナルドは 1 歳馬せり馴致用の牧場も購入しこれが有力コンサイナー、イートンセールとなり成功を収めます。リー・イートンはコンサイナー業を始め多くのサラブレッドビジネスのスタイルを確立し多くの優秀な人材が彼の牧場から輩出されました。
当社はイートンファーム買収後この牧場の歴史と景観を守り、また農地保護のための PDR[直哉1] プログラムに敷地を登録しました ( 注 PDR プログラム登録によって農地から他の用途への転用は難しくなる ) 。私達はこうした由緒ある牧場を引き継ぎ新しい歴史を刻む機会に恵まれ、嬉々として仕事に打ち込んでいます。
Horeb山の土工事:ブルーグラスの中で最も古い構造
ホレブ丘の土塁 ― ブルーグラスの中で最も古い構造 ―
リチャード・W・ジェフリーズ博士
ケンタッキー大学人類学科、レキシントン、ケンタッキー州
ブルーグラス地方で最も古くから知られている建造物は、パイクアンテベラムの家や開拓者の住居ではなく、ファイアット郡北部のマウントホレブ通りにある先史時代の土製の建造物です。 マウントホレブ土塁[直哉1] として知られている円形の構造は、考古学者がアデナと名付けた先史時代の先住民族によって約2000年前に建てられました。 アデナ(Adena)の名前は先住民族の言語による意味を持ちません。それに類似する最初の考古学的遺跡が100年以上前に発掘されたオハイオ州の農場の名前から来ています。
アデナの人々は紀元前500年頃からオハイオ川流域に住んでいました[直哉2] [直哉3] [直哉4] 。 彼らは野生動物や植物を狩猟・採取して暮らす半遊牧民で、同じ場所に長期間定住していませんでした。 このため、考古学者達は彼等の拠点の痕跡をほとんど発見出来ず、日常生活についてほとんど知られていません。 短期間の住居とは対照的に、多くのアデナの人々は埋葬塚、「神聖な」円やその他の土塁の建設にかなりの力を注いできました。 ほとんどが社交や儀式目的に使用されていました。 ファイアット郡のマウントホレブ通り沿いには、アデナの塚と土塁がたくさんあり、そのうち当社内のマウントホレブ土塁が最良の保存状態で管理されています。
その考古学的調査では、幅45フィート、深さ8フィートの溝に囲まれた直径約105フィートの円形の内部領域から構成されていることが明らかにされました。 溝からの土は外側に積み上げられ、溝と円形の内部領域を囲む高さ5フィートの壁を形成しました。 土塁南西側では、入り口を作るために溝と壁は作られませんでした。 土塁全体の直径は約300フィートです。
ケンタッキー大学ウェブ博士の発掘調査チームは、工芸品をほとんど発見しませんでしたが、木の柱がかつて立っていた場所を示す円形構造物跡を発見しました。 柱の円は直径約100フィートであり、8本の単一の柱とともに対として立てられた62本の柱が見つかりました。 直径約1フィートの個々の柱は、おそらく壁を支えていたと思われます。 壁の目的は不明ですが、内部を隠すために使用されていたと推測されます。 殆どの考古学者は、マウントホレブ土塁で行われた活動は、基本的に集落活動に利用されていたと考えられていますが、その具体的な目的は解明されていません。
この地域で唯一のアデナによる建造物は土塁だけではありません。 これに類似する小さなものが郡南部にあります。 フィッシャーマウンドとして知られているその塚が1870年代に発掘されました。 南西部では、マウントホレブよりはるかに大きいビターヴィレッジの土塁が見つかり、それは約25エーカーの面積があります。 ピータービレッジはかつて4,000以上の杭を含む木製の防御柵で囲まれていました。これら以外のアデナ族による塚・土塁はエルクホーン川流域に分布しています。
約50年前、マウントホレブ土塁は有志の寄付により購入され、ケンタッキー大学に寄贈されました。 同学は次の世代による研究のため保存・維持を続けます。